昭和41年05月02日 夜の御理解
信心をさせて頂くものは何事にも信心になれよと、とりわけ御用をさせて頂くという事の中身がいよいよ信心でなからなければ、その御用が御用にならない。御用が私用になったんではおかげにならん。いかにも総代でございます幹部でございますと、総代の御用ができても、幹部の御用ができても、私がおかげを頂きたいから、おかげを頂くための御用であったら、それはもう御用ではないのである。それはもう私用である。
してあげます、というようなことでであったら、御用ではないです。どこまでもさせて頂くのでなければ御用になりません。信心をさせていただくものは何事も信心になれよとね。何事も信心になれよと、とりわけ、とりわけ御用をさせていただく時には、中身が信心でなからなければいかん。例えば今、学生の方達が新聞の編集のためにいろいろとそれこそもう、土曜日曜はもう泊り込みで、御用をしておる。
女子の方達は、今、樂の例えば、稽古を(?)しておる。その樂でも、そいう御用そのものがです、信心が、土台でなかったらそれはもう値打ちがない。どんな垢抜けした新聞ができてくるようになりましても、どんなに例えば樂が上手になりましても、信心をぬきにした、樂人であったり、御用人であったりでは、もうそれは値打ちがない。どこまでもひとつ、信心が、御用が、いよいよ信心でなされなければ、ここでも久保山先生なら久保山先生、朝から晩まで、久富先生なら久富先生が御用をなさる。
ですからその、御用そのものがです、本当に実意を極めた、丁寧を極めた、いわば、信心でなされて、はじめて、その御用が御用としての値打ちになってくる。ね。せっかくの事でございますから、それがやはり御用にならなければいけないでしょうが四神様は氏子が神のようを足せば、氏子のようは神が足してやる。と仰る。ね。神様の御用をさせて頂いておれば氏子のようは神様が足してやると仰るけれども。
例えば、私申しますように、御用が私用のような、内容になっておったのでは、神様がようを足してくださるはずがない。御用が御用に本当になっておってこそ、始めて、神様が氏子の用は神様が足してやるという事になるのです。そこんところを一つ本気で思うてみなければ信心をさせて頂くものが、なんていうでしょうか、信心の賀びというものに触れる事はできません。
御用の賀びに触れることはできません。御用にお使いまわしを頂いて、御用につこうて頂いてという賀びが湧きません。いつも、自分が貧乏くじをひいておるごとある。自分だけで御用しよる。自分だけが御用を、それではです、御用の賀びはないです。ね。御用からは必ず、賀びが生まれる。その賀びが神様を動かし、動かすのであり、氏子のようは神が足してやると仰るような、おかげになってくるのである。
御用をさせて頂いておって、もし、賀びもなかったならば、もうそれはあなたのは御用ではない。ね。して上げておりますのである。ね、してあげておりますのは、神様のほうがまっぴら。神様の方がごめん蒙りなさる。今日でもね、神様は、私はそう思うのです、そうだと思うです。けれでも神様はです、それでも、その氏子がおかげを受けなければならんからと仰るです。
それでもやはり、その氏子がおかげを受けなければならんから、そのことから信心にならなければいけないから、本当にしてあげますというような御用だけれども、それでも見なおし聞き直しして、御用に直そう、御用にどうでもかして、してやろうという風に、お働きを下さるのでございますけれどもね。そこんところを私共氏子としては、あいすまんと、本当に御用が御用になるような、内容にならなければならない。
今日ある方が、ご造営のことで、本当にいわゆるお役に立ちたいというのである。ね。先生、本当に私が思うておるような、御用が出来ますと私は本当にそれを思いますと。為には先生どういう信心をさせて頂いたらよろしゅうございましょうかと、こう言う。皆さんもそれを思われるでしょう。お役に立ちたいと。もうこの人はほんとうにお役に立ちたいと椛目を通して、このような尊い御用をさせて頂く時は、またなかろうというような、いわば時期にお互いが恵まれておる。
いうなら、千才一遇の時期に恵まれておる。ですから、お役に立ちたい、だからそのお役に立ちたいためには先生どういうような信心をさせて頂いたらよろしゅうございましょうかというような、お伺いに対して今日、私、お三方の一番向こうの右の端に箱物のお供えがあっておるますでしょう。あれを最近お菓子を私があのままいただけんからでしょうか、お菓子というてもみんなとみんな、ああいう、せんぺ類のような、缶入りのようなあんなのばっかりなんですね。あれ全部そうなんです。
おこしか何か、あられの様なものなんですね、あの御覧なさいあれに今度はですね、もう不思議にですね、あの私の好きな所謂橙色です、かぁき色です橙色に黒、橙色に黒になっておるでしょうがみんな。黒と橙色が一つごしになっておるでしょうが。あとから私が本当に、そう成程と思われる、私があとから見せてあげます。一つ。ああ一つなんかはもう、橙色と黒とがその、あの箱の図柄になっておるですが、橙色と黒ぐらい、まっちした、調和を見せるものはないです。
黒とかぁき色が実に素晴らしい、いわば、調子のおうた色なんです。本当にお役に立ちたいと。ためにはどういう信心をさせて頂いたならば、そういうおかげを頂けれるだろうか、ということを、神様はあああればおかげになると、言う事を教えてくださる。皆さん分かるでしょうか?「鐘が鳴るのか撞木がなるか、鐘と撞木の間がなる。」ね。鐘がゴーンとなる。あれは鐘が鳴っておるのか撞木がなっておるのか、鐘だけでもいかん、撞木だけでもいかん。ね。
その二つが一つになって、いわゆるミックスされて、どこから出るやら分からんようなところから、あの音色というものが出ておるのです。黒とかあき色が一つになってです、どっちが、色がよいから、あげな素晴らしいよい、調和を保つ色になるだろうかというようにです。橙色といえば椛目の信心のことでしょう。内容が本当に喜び、内容がより暖かい、いよいよ、本気で限りなく美しくならせて頂こう、いわゆる、みかん色なんです。と同時にです。あの黒というのは修行の事だと私は思うのです。
例えば、この人は仏様のような人じゃと。この人は本当に人が真似の出来ないような修行をが出来ると。それが別々であってはね、おかげにならんと言うこと 修行はいといませんというのとです。同時に自分の心を自分で拝みたいような、内容にならせて頂くことを楽しみにです、磨く事に改まる事に本気にならせて頂いて、ね、その例えば修行をいといませんというその二つがです、いわゆる、かあき色と黒とが一つになってです、どちらから生まれてくるか分からんような良い音色がです。
いわばどこから、こういうおかげが生まれてくるか分からんようなおかげが生まれてくるのです。修行しよりますだけじゃいかんのです。内容が有り難くならなければいかんのですね。内容だけがあの人は仏様のようなひとじゃと言われただけじゃつまらんです。その人が本気で修行はいとわんという信心にならせて頂くときにです、ね、そうした黒とかあき色の何ともいえん、ひとつのハーモニーとでもいうですか、そういうようなものが生まれてくるのです。
調和音、調和色なんです。どこからこげなおかげが生まれて来るのであろうかと、どこからこげな喜びが生まれて来るであろうかと、言う様なものがです、心の中に頂けて来る。本気で限りなく美しくならせて頂こうとする意欲と、本気で修行に取り組ませて頂くという、修行をいといませんという、その修行を、苦労を苦労とせず修行と頂けるところの信心なのです。それとこれとが一つにならなければ、いわば、本気でお役に立ちたいというても、神様はお役に立つような御用には使うて下さらんということ。
そこで御用の内容と言うことが分かってきたでしょう。御用とはそう言う様な内容を持ったものでなからなければ、ならないと言うこと。お役に立ちたいお役に立ちたいというても、お役に立ちたいというて、いくら修行しただけではつまらん。お役に立ちたいお役に立ちたいというものが、自分で自分の心が拝みたいごたる、有り難い思いがあってもですそこに修行が伴わないなかったら、現実のおかげになってこないと言うこと。
その両方が一つになっていくときにです、鐘がなるのか撞木が鳴るのかその、鐘と撞木の合間から生まれてくる、音色というものが、生まれてくるようにです、ね、氏子が神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰るような意味での御用。御用はそういう内容を持っておかなければならないと言うことなんですね。
どうぞ。